グリーンマイル
「グリーンマイル」は、1932年の大恐慌時代の死刑囚が収容される刑務所を舞台とした映画である。
主人公のポールが、刑務所で看守をしていた時、双子の女の子を殺した罪で死刑判定を受けた黒人の囚人コーフィと出会う。彼は、触れるだけで病気や怪我を治すという不思議な力を持っていた。
まず、死刑囚の集められた刑務所、というのだけを聞くと、少なからず暗く冷たいイメージを持つだろうが、この映画では単純にそうではないという印象がとても強かった。
囚人たちは、死刑になるということが決まっているのにも関わらず、平然としていて冷静だった。いや、むしろそれまでの時間を楽しんでいるようにも見えたのだ。囚人の1人であるドラクロワは、死刑執行のリハーサルしている最中にふざけて笑いをとったり、刑務所内にいたネズミをペットとして飼い始めて芸を覚えさせたりしていた。
そのようなほのぼのした場面は、私の持っていた刑務所に対するイメージとは大きくかけ離れているものだった。
まあ確かに、ずっと刑務所での淡々とした冷酷な雰囲気が続いていたらこの映画を3時間も見続けるのは苦痛でしかなかったかもしれない。(実際私はあまりシリアスな映画が得意ではない)
また、看守たちも囚人たちに寄り添っており、仲良くなっているという状況に違和感を覚えた。
「どこか別のところで会いたかった。」
ある囚人は死刑執行の直前に看守にそう言った。
「大丈夫。勇気を出せ。」
これは死刑執行の前に、看守が囚人にかけた言葉だ。
こんな関係が死刑囚の刑務所で築かれているというのは、私にとっては想像もつかないことだった。冷たい刑務所のイメージとは違って、むしろ温もりさえ感じるようなものだったのだ。
ところどころに溢れるユーモアや、看守と囚人の暖かい繋がりが描かれていることで、囚人を悪人としてではなく1人の人間として愛着を持って見ることができたのだろう。
しかしそれが逆に、死刑執行の時に感情移入してしまうことに繋がってしまったのだが。
次に、コーフィの話題に移る。
コーフィは実は無罪であったということが判明するが、それを証明できるものもなかった。看守たちは脱獄を勧めるが、彼は最終的に冤罪による死刑判決を受け入れることを選ぶ。
映画の中で、コーフィはこの言葉を繰り返した。
「愛を利用して人を殺した。同じことが世界中で起こっている。」
彼はそんな世の中に耐えれなくなったのだ。彼は誰よりも優しく、誰よりも愛に溢れた人間だった。
この世界は、うまくいかない、どうしようもないことが多すぎる。
本当は死ななくていい善人が処刑されてしまう。阻止したくても、それもできない。被害者側はコーフィを恨んでいて、憎んでいる。本当は違うと伝えたくても伝えることができない。もどかしくて、どうしようもなくモヤモヤする。しかしそれは誰にもどうすることもできない。
こんなに理不尽なことが世界ではきっとたくさん起こり続けているのだろう。そう思うと、こんな酷い世界に目を瞑って死を選んだコーフィの気持ちが分かる気がした。
ポールはコーフィの不思議な力によって108歳まで生き続けている。愛する人たちが死ぬのをずっと見届けてきたのだ。これはコーフィを殺した罰だとポールは言っている。もう何が正しいのか私には分からなかった。ポールは悪くないのにずっと罪の意識を背負ったまま生きている、いや生かされているのだった。
こんな理不尽な世界でも、きっと生きていくしかないのだろう。
そんなことを考えさせられるような映画だった。しかし、きっと私の20年間の浅い人生経験では分からないようなことがたくさんある。もっともっと大人になった時、この映画をもう一度見たらまた違うことを考えられるようになっているのだろうか。